Essay

第9回 「やっぱりナマがいい?」

◆マジックは“一期一会”のライブだ

「目の前で見たら、テレビで見るのとはぜんぜん違う!!」
マジックバーに初めて来たお客さんが決まって言うセリフだ。やっぱり生は違うらしい。

テーブルホッピングというスタイルがある。レストランやパーティなどで食事中のテーブルを回り、マジックをご覧いただくという形式だ。お客さんは間近でマジックを見ることができるので、目を丸くして楽しんでくれる。

先日、ホテルのレストランでホッピングをしていた時のことである。

あるファミリー連れ。小学3年生ぐらいの子供が食事も早々に、携帯ゲーム機に没頭している。「マジックですよ~」と近づいてもメガネの端からチラと一瞥するだけで、知らん顔してふたたび液晶画面に目を落とす。
こうなると僕はこれ以上踏み込めない。無理に見せるわけにはいかないから、早々に去った。


これはなんだろう。家族がそろってテーブルを囲む特別なひとときのはずなのに、子供はそしらぬ顔で自分の世界に入っている。誰かが来ても関わりたくなければシャットアウト。もし僕がその子の親なら当然、「ご飯のときはゲームをやめなさい」とたしなめるだろう。

別に「ゲームよりマジックの方がおもしろいよ、見て見て」などと言いたい訳ではない。マジックはどうでもいい。
ただ、お父さんやお母さんとホテルに食べに来たことや、あるいはマジシャンがウロウロしているような珍風景も含めて、非日常で刺激的な、ワクワクするような体験なんじゃないのかな。
ゲームはゲームでいいが、本当に貴重な時間は今、目の前を流れ去っているんだよ。

◆人生とは「今、この瞬間」の連続

以前読んだSF短編でこんな話があった。

近未来、人々は頭の横に超小型ビデオカメラを常時装着しており、見るもの全てを余さず録画している。
このおかげで一度見たものはいつでも再確認でき、複雑な地図でも眺めのいい景色でも恋人との会話でも、いつでも自在に呼び出すことができる。もう話の内容をメモしたり、見たものを必死に覚えておく必要もない。
次第に人々は何かにつけて「あとで再生すればいいや」と考えるようになっていった。

そんな生活が当たり前になった頃、主人公はふと妙な感覚にとらわれる。
あれ?昨日の自分の行動が思い出せない。それどころか、自分は今までどうやって生きてきたのかも。
いや、そもそも自分とはいったい誰なんだろう??

機械に頼りすぎるのがどうとか、ゲームが与える影響がどうとか言いたいのではない。
「今、目にしている光景こそがリアルで意味のある瞬間なんだ」ってことだ。

人生とは、その瞬間にしか味わえない唯一無二の時間の連続である。その中で、自分の目で、耳で、肌で感じることによって生まれるリアリティ。これこそが生きているという実感のはずだ。

いくら液晶パネルが1677万色を表現しようとも、情熱を込めて贈られたバラの真紅や、恋人と眺める夜景の眩しさにはかなわない。他人と時間や空間を共有するっていうことは、デジタルコピーされるような軽いことではないのだ。

僕は、僭越ながらマジックを通して伝えられることがあるとすれば、その辺りじゃないかなぁと思っている。
お客さんはたくさんのトリックやフェイクを見るが、見て驚いたことや面白かったという生の感覚は、リアルな体験として残る。

その必要性がある以上、僕はマジシャンとして、まだまだたくさんの人にマジックを演じ続けなければならないと思うのである。

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