Essay
第2回 「魔法使いにはなれない」
◆魔法を信じたいのは分かるけれど
あるパーティの数日前、
「当日お誕生日のお客様がいるので、なにかこう、パッと花でも出してプレゼントしてあげてほしい」
と言われた。期待を寄せてくれるのはありがたいが、これには頭を抱えた。「パッと花でも」と気やすく言うが、生花を一本出すのがどれだけ困難なことか。
たしかにマジシャンは舞台上で、鳩やワインの入ったグラスや大きな傘を自在に取り出してみせるのだから、花一本ぐらいチョチョイのチョイだと思うかもしれない。でも実際はそうじゃない。空中からコイン一枚取り出すのだって、周到な準備と計算しつくされた角度やタイミング、飽きるほどの事前練習によってようやく成し遂げられるものだったりする。単に僕が未熟なせいもあるが、それを十分な練習もなく未完成な状態でやるというのはどう考えてもよろしくない。
結局この演出はなくなったのでホッとしたが、マジシャンというのは思うほど何でもできる「魔法使い」ではないのだ。こんなことを言うと、なぁんだ、とがっかりするかもしれないが、訓練によって身に付けた芸を披露するのがマジックであり、それ以外のことは(多少の応用は利くとしても)基本的にできない。(でも僕は、逆にそれこそがマジックの素晴らしいところだと考える。)
マジックは見ている人にとっては意外性の連続なのだが、演者からしてみればすべて予定調和でコトが進んでいく。繰り返し練習して体得した技術を、さんざん練り込んだセリフに合わせて、予定通りのタイミングで予定通りの動きをして予定通り終わる。
この一連の流れを「手順/ルーティン」と呼ぶが、もちろんこのルーティン内においては、あたかも魔法使いであるかのように完璧に演じなければならないと思っている。ここだけはなんとしてでも夢見心地に陶酔させるのがマジシャンの務めである。
◆魔法使いはそこにいる
ともかく、あくまでマジックは「魔法のように」見せる芸だ。美女の胴体をギロチンで切ったとしても本当に切れたと思う人はいない。ところが現代の医療は切断された腕をつなぐことさえできる。
そう、人間はとっくに本物の魔法を知っているじゃないか、と言いたい。科学という名の魔法を。離れた人と話せる電話、どんな鳥よりも速く遠くへ飛べるジェット機、電子レンジにカメラ、ラジオ、ロケット、レントゲン、映画・・・。それらは「タネ」を知らなければ魔法以外の何物でもない驚嘆すべき科学の産物である。それはまさしく人間の想像力と努力の果実である。
そんな大それたことでなくても、たとえば僕は料理ができないのだが、肉を切り、野菜を茹で、ソースを煮込んであっという間にご馳走を作ってしまう料理人など、僕から見れば不思議でたまらない。小さな川に架かる名もない橋を見ただけでも、いったいどうやったらこんなものが造れるのか本当に感嘆してしまう。聴診器を当てるだけで病気を発見してしまう医者、プログラムを組んでコンピュータソフトを作り上げる技術者、カナヅチと釘で家を建ててしまう大工、僕からすれば、この人たちの方がよほど魔法使いに見える。
僕は、この社会を創りあげているこうした無数の“本物”たちを相手に、今日も魔法使いの役を演じているのである。