Essay

第11回 「サクラサク」

◆パッと散ってこそサクラ

いつのまにかすっかり春、桜の季節である。
桜の咲き誇るのはほんの一瞬で、儚く散るから美しいのであって、刹那ゆえに切ないのである。

マジックの世界にも「サクラ」は存在する。いうまでもなく「仕込みの客」のことであり、ショーをより面白くするための効果的な演出としてしばしば使われてきた。

その昔、街中やそれこそ花見の桜の下で「デンスケ賭博」というイカサマ遊戯が繰り広げられていた。
3つのマッチ箱のひとつに当たりの玉を入れておき、胴元が素早い動きで左・右・右・左と入れ替える。当たりはどの箱か、という原初的なギャンブルである。

最初は簡単に当たるので、楽勝楽勝♪と思っているところで、イカサマ師は本領を発揮し出す。どうやっても勝てない。客は負けが込み、取り返そうと躍起なる。
そこへ一味の誰かが、「警察だ!」と叫び、場がパニックとなる中、イカサマ師とその仲間たちは混乱に乗じてパッと消え散るのである。だからサクラというのだそうだ。

◆妄想か、はたまたサクラんか

それはそうと、子供の頃よく考えていた妄想がある。
実はこの世界は自分ひとりを除いて全員が僕の人生ストーリーを彩るエキストラなんじゃないか、というものだ。

つまり、親兄弟や友人、学校の先生も職場の上司も、道ですれ違うだけのおじさんも、皆それぞれが「友人A」とか「店員B」とかの役割を与えられたキャストで、僕の眼前でだけそれを演じる役者、すなわち世界のすべての人が「サクラ」なのではないかという突拍子もない考えだ。

ニュースで流される事件や紛争なんかも本当はそんなものは起こっていなくて、僕に見せて何かを考えさせるために巧みに練り上げられた虚構であって、すべては僕を教育するための装置なのである。

で、たとえば僕がエッフェル塔を見たいと飛行機に乗り込むとする。たちまち現地スタッフが、あたかも何百年もの間そこに在り続けてきたかのような街並みのセットを作り上げ、今まで本やテレビを通じて僕に見せてきた架空のパリをそこへ現出させるというわけだ。

バカバカしいとお思いだろう。もちろん、今でもそんな馬鹿げた妄想を抱いているわけではない。こんなことをマジメな顔で言おうものなら、完全に頭のおかしい人だろう。

そもそも、それが間違っていることは今これを読んでいるあなた自身が一番よく理解しているはずではないか。
少なくともあなたは、この僕のために演じているエキストラなどではないと自分で知っているからである。

ただ、これはここに書いていいのかどうか分からないけれど・・・。
本当はすべてはあべこべで、実は僕、いや僕だけでなくあなたの家族も友人も全部が、あなたの人生ドラマを彩るためのサクラなのかもしれませんよ・・・。

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